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酒のこぼれ話

酒のこぼれ話

酒のこぼれ話

酒楽亭亭主のもとに届いた一通のメールから始まった「酒のこぼれ話」だが、話し手の桟敷童子は昨年4月の投稿を最後に旅立ってしまった。
酒楽亭亭主のたっての願いからページはそのまま残していたが、一年経ったところでご家族の方から手紙と写真が届いたので紹介させていただきたい。

photo by 桟敷童子(さじきわらし)

 

桟敷童子の妻より

主人の生前のご厚誼、有難うございました。先日、名簿の整理をするため、主人のパソコンを開きましたら、最後の入院をする直前に家の近くで撮った写真が保存してありました。 そのうちの3枚をプリントしましたので同封させていただきます。主人が亡くなる少し前まで、このように花を愛でたり、好きな音楽を聞いたりして過ごしていたのだと知っていただければ幸です。

桟敷童子の妻より
桟敷童子の妻より
桟敷童子の妻より

 

 

新入社員の季節

春は多くの新入社員が社会人として巣立つ季節でもある。我輩はこのところ入退院を繰り返しているが、4月からしばらくは戦々恐々としている。 それは恥ずかしながら注射が大嫌いだからなのである。酒楽亭の主人にいい大人がと言われようが、体に針を刺されるのは本能的に受け入れがたいし、なんと言っても痛い。

注射といっても輸血、点滴、動脈血の採血等色々あるが、隔日か症状によっては毎日行われる静脈血の採血は看護士によって行われる。その看護士におおくの新人が入るのが4月なのだ。 彼女等は初々しくて見ているだけであればこれほど気持ちが和むことはない。ところが採血ともなると事態は一変する。一般に恐ろしく丁寧だ。 ジワーッとゆっくり針を刺し、うまく血管に当らないと中で針を動かして血管を捜している。サッと射して軽く引けば良いはずなのだがこれをゆっくりやられるとたまったものではない。 先方もうまくいっていないことを認識すると、さらに針を差し込んでぐりぐり、もう明らかに血管を突き抜けている。こうなるともう初めからのやり直しである。抜く時もゆっくりでこちらも痛い。

可愛い声で「ごめんなさいね」と言われると思わず「いいよいいよ」と返事してしまう。誰だって最初からうまいわけはないんだ。また練習台と割り切って協力しなければと踏ん張る。 そして次も同じことの繰返し、「ごめんなさいね」。こちらもそろそろいらいらして来たことがわかるのか、看護士の口調も変わる。「がんばって!」とちょっときつめの口調である。 もう十分頑張っているつもりなのだが。そしてまた失敗。もう笑っている余裕はない。それにあわせ先方の声も力強くなった。
曰く大きな声で「がまん!」あなたは大の大人でしょう、このくらいでなんですかと言う感じの一喝。どことなくわがカミさんの進化のような気がして、「ハイすみません」。 腕には立派な黒々とした内出血の跡。我輩だけかと思っていたが一緒に入院していた脳外科の先生が、「痛いー」と大きな声を上げていたから客観的事実であることは確実。

後日、看護士がどの程度注射の練習をしてくるのか聞いた。「大根にぶすぶすと針をさして練習するのか?」。答えはとんでもない、模型を使って注射の練習をするのですよというもの。 それじゃーやっぱり不十分だよね、模型は文句は言わないから。やっぱり生身の人間が練習台になってやらないと、とは思いつつやはり拒否反応を持ってしまう我輩なのです。

でも3年も経つとみんなうまくなりますよ。そして新年度になるとまた新入看護士が…

東日本大震災

私事になるが、母は母の父親、つまり我輩の祖父の不幸をよく口にしていた。65年も前の話である。これから隠居して余生をゆったりとという矢先、跡取りの 息子が戦死、田舎にもかかわらず家は空襲で焼かれ、こつこつ買い集めていた田畑は小作に出していたために農地解放で失い、女子供を抱えて茫然自失としてい たそうである。そう言えば小生が覚えている祖父の姿は、バラックのような応急住宅の中で、やけに無口で憂いを漂わせているような雰囲気があった。

そして今回の地震津波災害である。今回はさらに想像を絶するような苦難が被災者を叩きのめしている。家族を失い、家を失い、職場も流されて再開の目処も なく、さらに地盤が沈下して元の場所には家を建てられない人も多いと聞く。家を建てる土地が残ったとしてもそこに同じような家を建ててよいものかどうか、 当然何十年、何百年後かに来る次の津波災害を考えればそう簡単には決められないはずだ。八方塞である。当面は命が助かっただけでもと思うかもしれないがそ のうちものすごい絶望感、無力感が襲ってくるだろう。若いうちならともかく、今の高齢化社会では年配者が多い。そういう人たちが本当に立ち直れるのだろう か。人間は他人のためになることで生きがいを感じる側面がある。子供のため、孫のため今死ぬわけには行かない等の気持ちが活力の源になる。そういうものが 一切失われてしまった時に、生きる力を持ち続けるというのは相当難かしいに違いない。

くわえて福島原子力発電所の事故。いつになったら冷却系統が復旧できるのか、放射性物質の拡散を止められるのか、いつ自宅に戻れるのか、今の段階ではす べて不透明である。 そのほか色々なタイプの被災者がいる。両親が津波に流され孤児になってしまった子供、一家が全滅になったケースも。新築の家を津波で流され、ローンを抱え たまままた新しい家を考えなくてはならない人も悲惨だ。こうなると個人の力だけでは対応は無理、社会全体が被害の状況を理解し、復興のための負担を共有す るくらいの意識が必要だろう。幸いあちこちでそういう機運が生まれつつあるようだ。足の引っ張り合いばかりしている政治家はもう要らない。前例にばかりと らわれている官僚も同じだ。

船上生活と酒

仕事の関係上航海に出ることが結構あった。外国航路や遠洋漁業では一旦日本を離れると、1年も日本に戻れないという厳しい生活が続くと聞くが、我々の仕事 はそこまで長期ではない。しかし海上の業務は24時間連続であり当然交代勤務となる。国際的には12時間交代が普通であるが日本の標準では8時間交代が標 準である。我々のシステムは仕事の性格上もあって一日12時間勤務を採用していた。これは若い体力のある内は良いが年をとってくると結構しんどい。でも6 週間働けば原則的に6週間の連続休暇が得られるのが国際的に慣習になっている。

そこで問題になるのが船上で酒が飲めるかどうか。交代勤務もさることながら、水平線ばかり眺める変化のない生活では食べることと飲むことが非常に重要で ある。特に騒音・振動のある中で熟睡するには酒を飲むのが手っ取り早い。というような理由付けで酒もよく飲んだ。しかし時代が変わり安全上の理由で、最近 の船は乗船中はアルコールは一切ご法度。それをドライシップという。ドライシップになる過程でよく話題になったのがお前のところはドライかどうかと言うも の。いや完全なウェットさと言うのが日本の船だったが、国際安全基準が適用されるに従いドライになって(?)いった。

6週間禁酒というのはのん兵衛にはかなりきつい。大体外航船は免税の酒をしこたま積み込むのが普通だったし、かの南極観測隊の初代隊長であった永田武先 生が毎日ウィスキーを飲みながら隊員と話をしたというのは有名な話である。今の船がやっているかどうかは知らないが、赤道祭というのがあって赤道を越える 時盛大なお祭を行った。当然アルコールが出て飲めや歌えの大騒ぎ、無礼講となる。閉鎖空間で変化のない船上生活では、このようにしてストレスを軽減するこ とは重要だった。ドライどころか、ビタミン不足を補うために3リットル入りのブルガリア産ワインボトルが1週間に1本配給されたりしていてアルコールを奨 励する形もあった。

ちょっと気になるのはフランスの船。彼らにとってワインは水と同じだから朝からがぶがぶ飲んでいたが、世の中が変わった今はどうなっているのだろうか。

酒まんじゅうと焼きまんじゅう

日本全国に酒まんじゅうがあるが残念ながら我輩は食べた記憶がない。まんじゅうなのになぜ酒という字がつくのか不思議だが、どうも小麦粉の発酵過程で酒糀を使うかららしい。 同様な糀発酵で作った食べ物に「焼きまんじゅう」がある。これは群馬県の特に東南部を中心として食べられるまんじゅうで、県民ショーに出て来るような非常に限られた地域でのみ販売されている。

群馬県は国内小麦の有数の産地であり、この小麦粉の生地を発酵させたものを蒸し、それを焼いてタレをつけこんがりと焼き上げるのであ る。うなぎの蒲焼の変わりにまんじゅうを丸々蒲焼に仕立てたと思えば分かり易い。焼いてはタレをつけまた焼くことを繰り返す。タレの味も甘しょっぱく蒲焼 に似ているといえば似ている。

通常平べったいまんじゅうを4個竹の串に刺し、食べるときも竹で作った特製の焼きまんじゅう用フォークを使う。 注文されてから火をおこし、タレがたっぷりついたアツアツの焼きまんじゅうを頬張る、これは食べた人でないとわからない味だが、最初口にした他県人には多くの場合珍妙な味と感ずるようだ。 しかし何回か食べると大抵はまってしまう。餡入りもあるがこれはマイナーでほとんどの人は餡無しの焼きまんじゅうを食べる。 お祭や花見の屋台でもよく売られており群馬県人にとっては忘れられない味だ。 焼きまんじゅうのあと、トコロテンを食べることがまたポピュラー、タレの濃さとさっぱりしたトコロテンの組み合わせが絶妙である。

地元でも焼きまんじゅう屋は多くの場合こぢんまりとしている。昔流でいえば茶店といった風情の所がほとんどで串1本から気楽に食べられる。いたく庶民的な店であり味であるのだ。 これがまたなんともいえない。比較的大手では前橋の原嶋屋、伊勢崎の忠治茶屋があるが、変わった名前では太田市に「助平屋」というのがある。もともとは平仮名で書いていたらしいが、戦時中けしからん屋号だと当局からクレームがあり漢字に直したという。 何か特別なものがあるかと思って入ってみたが、焼きまんじゅうはごくごく正統派のものであった。

バーボンはアメリカの味

みんな昔話ですが、普段飲んでいたのはビール。やがてウィスキーにも手を出すようになりました。アルコール度が高いから手っ取り早く酔えるのです。当時は海外からの帰国時にはスコッチウィスキーを買って帰るのが当たり前で、なぜか日本人はジョニ黒一辺倒。3本の免税枠のうち、2本を土産として、残り1本は自分用というのがパターンでした。

そのジョニ黒が少し減ったらサントリーレッドで水増しをする、そしてまた少し減ったらレッドを入れる、そうするとジョニクロをちょっと多めに飲んだ気分になるのです。この飲み方は某大学の高名な教授に教わったものです。これを繰り返しているとレッドの味になってしまうのでどこで止めればよいかがその教授のノウハウでした。そのくらい我々は貧しく、また洋酒が貴重だったのです。ウィスキーはスコッチと思い込んでいたころ、アメリカにバーボンというのがあることを知りました。

その後米国出張の際はほとんど飲み物はバーボンに変わりました。ジョニ黒のイメージが強かったためかバーボンは非常に安いと感じたものです。トウモロコシを原料とする味も格別でした。飲んだのはもっぱらジャックダニエルブラック。これを飲むとアメリカにいるなぁと感じたものです。今やその辺のスーパーでも売っていますが、当時はひどく新鮮で、帰国時はいつもジャックダニエル3本を抱えてきたものです。

そんなある日ホテルのバーばかりで飲んでいるのも能がないので、部屋で飲むべく近くの酒屋にジャックダニエルを買いに行きました。そこで要求されたのが年齢を証明するID。パスポートを見せたけれど、もう1種類見せろという。なんでもオクラホマ州の州法では18歳未満に酒を売ってはならんことになっており、年齢を証明するものも2種類必要とのこと。だいたいいくつだと思ってんだと聞いたところ、店のおばさんはアンタはスクールボーイだろうと片目をつぶってのたまわった。日本の免許証を見せたら漢字の上年号が昭和でわからんという。それでも粘って最後には売ってもらいましたけどね。

ちなみにその頃小生はまだ30代半ばでした。アメリカ南部は実に保守的で、今でもテキサスなどではいろんなイベントに南北戦争の南軍の旗が出てきます。アルコールに関しても同じ。日曜日には酒屋は店を閉め、酒を売っているスーパーもその一角は閉鎖、つまり日曜日には教会に行きなさい、ということなのです。レストランや空港の店も少なくとも午前中は酒を出しません。それでいて飲酒運転は日常茶飯事。我々から考えるとちょっとおかしいのですけどね。それとも我々がおかしいか?
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ポーランドでとてつもなくアルコール度の高いものを飲んだことがあります。チェリーリキュールとかチェリーなんとかとかいったもので名前はよく覚えていません、小生がこれまで飲んだものの中では最高のアルコール度。火をつけるとボウボウ燃える感じ、味なぞよくわからなかったけれど面白半分にグラスを空けました。寒いところは簡単に酔えて暖かくなるこの手のものがあるようですね。

渡良瀬遊水地ヨシ焼き

初春の風物詩に野焼きがあるけど、渡良瀬遊水地のヨシ焼きは圧巻ですよ。今年は3月20日朝8:30分より(天候不順の場合予備否へ)、午前中が見ものです。小生は入院中で行けませんが、時間があれば一見することをおすすめします。非日常的光景が見られるはずです。情報は「渡良瀬遊水池ヨシ焼き」で検索すれば出てきます。過年度のサイトも残っているので注意して下さい。ヨシ焼きの日は無理だけど遊水池の中の旧谷中村の廃村跡を見るのも良いですね。

茨城県古河市公式HP渡良瀬遊水地ヨシ焼き実施のお知らせ

筑波山

筑波山

先日、遠望した筑波山の写真をプリントしましたが,小さくてどうも冴えない。人間の目には結構はっきり映るのだけれど、カメラでは選択効果が働かず探すのがたいへんなくらい…ということで写真のエッジを強調したものも作りました。いい山なんだけれど当地からは所詮遠いし、どうしても人家が邪魔してしまう。富士山の方が大きく見えます。王子稲荷の絵に入っている筑波なんか立派ですよね。昔はあちこちから見えたんでしょうが…。写真プリントついでに広重の名所江戸百景に出てくる筑波山も何枚か同封しました(日暮里、隅田川、南品川)出典はウィキペディア。いずれも特徴ある双耳峰が立派です。

筑波山

もの好きの人はいつもいるもので、江戸時代の下級武士が上尾まで来れば浅間山が見えると聞いて、わざわざ足を伸ばしたという日記があります。城下から上尾まで約35km。これを徒歩で日帰りで往復したというから昔の人はすごい。暗いうちに江戸を出て戻ったのが夜更け、というから走りづめだったでしょうね。しかも当時の上尾界隈には雑木林が多く、眺望がきかず、さらに先の桶川近くの畑まで行って念願を果たしたという。この話しには落とし話がついていて、何も上尾まで行かなくても戸田の荒川の渡しの所で浅間山が見えることが後日わかり、がっかりしている。今でも高崎線の荒川鉄橋からは富士山を含め、秩父、西上州の山が見えますよ。でも江戸庶民の楽しみがわかって面白い。成田山や横浜の三渓園まで足を伸ばして文字通りの遠足を楽しんでいる。  もらったネパール製の帽子をかぶった写真も送ります。やはりこれでは目立ちすぎてコンビニに行ったら物議をかもしそう。でも暖かさはバツグンです。

 

富士も春霞

富士山、江戸宝永の噴火は凄まじかったらしい。たしかにタコ揚げなどしている場合ではなかったはず。あれほど美しい山体に宝永の噴火で傷がついた、でもいつかは山体崩壊を伴う大噴火が起こるはず、それが火山の運命なんだけどそうなったら東京はまさに小説の「死都日本」状態。まあ今すぐどうこうという話ではないですけどね。

リビア、エジプトなど地殻大変動。こちらも変動気味で入院中、メールなどしばらく即応出来ないかもしれず、失礼があるかも知れないけど悪しからず。

古代ハス

これがその古代ハスの写真。クリックすると拡大写真が出てきます。

古代ハス
古代ハス

 

思い出のウォッカ

1990年代の9月、出張で西シベリアに行った時のことです。モスクワからの飛行機が雪のため目的地に到着できず、北極海に面した寒村に不時着することになりました。滑走路が一本だけの空港は総二階建ての大型機(イリューシンxx?)が着陸するとそのまま閉鎖。飛行機も滑走路の端で身動きできなくなりました。

乗客はすべて降ろされて、掘立小屋のような空港の建物内で待機。なにせ人口2000人程度の小さな村とのことで、住民も興味本位にたくさん集まってきました。我々は数人のグループだったのだけれど日本人が来たと言うので大歓待が始まり、やがて大パーティに。なんでも日本人がその地に来たのは2回目だったそうです。パーティといっても空港の売店にわずかに売っていたウォッカと地元に人が持ってきてくれたルイベなど。これがまたなぜかうまいんですよね。歌って踊ってみんなすっかり羽目を外してしまいました。空港長のおばさんがまた迫力あるダンスを披露したりしてとにかく異な経験をしたものです。

夜になって飛行機はもう飛べないと言うので我々日本人のみ空港横の「ホテル」へ。これがまたすさまじいもので、かつて宿として使われていたというだけのもの。照明も暖房もなく、隙間風は入り放題。毛布だけは与えられたけれど、寒くてほとんど眠れない状態です。一方、ロシア人は飛行機に戻り一晩を明かしました。飛行機は一晩中補助エンジンを回し続け、機内の方がよっぽど暖かかったようです。ちなみに「ホテル」代はしっかり取られました。

翌日は天候も回復。無事目的地に出発できましたが、とにかく希有な経験でした。日本人の中には気がついたら時計など手持ちの品を現地の人にほとんどプレゼントしてしまった人もいましたね。これもウォッカのストレートのみの影響でしょうか…。

大型機といえば別な話もあります。これも1980年代末か1990年代初めのころ、アメリカから大型ダンプクラスの探査用車両をカザフスタンに送る必要性がありました。ところがカザフスタンは海に面しておらず、時間的にも海上輸送は現実的ではなく、結局選んだのがソ連機による空輸でした。5台一度に運べる機体はアメリカにはなく、世界最大のソ連の貨物機をチャーターすることになったのです。本件には小生は直接携わらなかったけれど、オクラホマ州の米軍基地にかつてのソ連軍の貨物機を着陸させ、車両を積み込んでいる写真を見た時には冷戦の終結を実感したものです。

本有難うございました。触発されて別途古代ハスの写真を送ります。

琉球泡盛「瑞泉」

琉球泡盛の「瑞泉」を送ってもらいありがとうございました。貴重品を深謝。ところでどうするか思案中。 不肖の息子たちは親に似ずアルコールに興味を示さず、しばらくは自分のところで温めることになりそうです。

昔は強い酒もずいぶん飲んだものですけどね。30年ほど前、中国に出張していた頃は毎晩と言っていいほど宴会。 強いラオチューをストレートであおっていました。なにせ手酌などは厳禁。飲むためには盃についで立ち上がり、一言言って乾杯。 これを一気に飲まなくてはならないのです。先方とこちらで最後まで乾杯の繰り返し。これが公式で相手が乾杯という限りやめるわけにはいきません。 よく体がもったものです。最近は中国でもこんな荒っぽい飲み方はしなくなったようです。

それにまた佐野屋の味噌、ワカメ、ショウガ糖、甘酒などたくさん、気を使ってもらいありがとうございます。 でもスローペースでやっていますのであまりあせらずによろしく。酒を飲まなかった日記は石原先生のものですか。案外飲んでいないんですね。

フランスのウサギ食用の話、見るからにうまそうですね。小学校低学年の頃、群馬でウサギを育てては小遣いに充てていました。 当時の話ではハムを作る際のつなぎとしてウサギの肉が不可欠ということでした。それがないと肉と肉がつながらないのだそうです。

昨日山を見に田んぼのあるところへ。富士山、秩父連山、丹沢、赤城山は見えたけれど、筑波方向は空が白っぽくて発見できず。標高が低いせいかもしれません。
浅間は真っ白で半分雲の中でした。条件が良ければ見えるはずの新宿副都心のビルが見えなかったから方向によっても条件が違ったのかも。

強い酒の話しでいくつか思い出したけれど続きはまた後で。

ことの始まりは手術から

大寒近しというけどとにかく寒いですね。ここ埼玉の田舎は東京に比べれば5度くらいは温度が低く、この季節だけは東京でマンション暮らしがしたくなります。夜、暖房を消すこともあって昨今は、朝起きると極寒の地にいるようです。

年明けは7日に入院。11日に3時間ほどかけて手術。1cm角の大きさのサンプルを採りました。全体の腫瘍の大きさは直径5cm、長さ12cmくらいですが、まだ正体はわかりません。写 真を見ると、見かけはふぐの白子のような感じでした。14日に退院して家で休養中ですが、まだ体を動かすと痛みを感じます。

これからどうするかは、検体を病理検査をして診断を下してから。それにしても片方の肺をしぼませておいて、肋骨の間から出来た隙間を通 してメスや鉗子(カンシ)を入れ、背骨付近の腫瘍をつまんでくるということが出来るとは、医学も発達しているものですね。手術後、肺をもう一度膨らませれば呼吸は一応できます。

ところで、鎌倉の黒檀の箸と地図ありがとうございました。わざわざ名まで入れてもらい恐縮です。これで食慾が少しでも良くなればいいのですけれどもね。地図は鳥瞰図形式で面 白い。昔、こういう形式のものがよくあったものです。遠くに見える山々もロマンを誘ってよいですよ。冬晴れが続くうちに、上尾近くで筑波山が見える所を探してみたいと思っています。

ではまた。

TEST01

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