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新橋夜話

納得できる本

 単行本「ポップ・フランセーズ名曲101徹底ガイド」はネットで「リタ・ミツコ」って誰かを調べていて出遭った。そこには、カトリーヌ・ランジェとフレッド・シシャンというカップルのグループ名だ、と書いてあった。初めはリタ・ミツコを名乗っていたが、カトリーヌだけを指す女性歌手名と勘違いされ、バンド名と分かるようLesを付けて「レ・リタ・ミツコ(Les Rita Mitsouko)」にかえたのだという。(そして2007年、フレッドが亡くなり、今はカトリーヌ1人で歌っているようだ)。疑問は一挙に解けた。

 アラン・バシュング、クリストフら、情報を得にくいシャンソン歌手についても触れている。へえ、面白そうだなと思ったら、本の宣伝ページであることも分かった。著者は「向風三郎」。フランス在住で音楽関係の仕事をしているという。発行は2007年とあるのに、本を目にしたことがないなと思ったら、東京では新宿・紀伊国屋など3カ所だけに置いてある、とあった。

 早速、紀伊國屋に行ったのだが見つけられず、店員に聞くと、棚の下の引き出しから出してきてくれた。ざっと目を通すと、ほぼ期待通りだったので購入した。

 本は1968年から2007年までの「普通にラジオで聞かれたヒット曲」を時代背景、世相とともに紹介している。レ・リタ・ミツコの曲は1985年の部分で「マルシア・バイーラ」、92年の部分で「セ・コム・サ」を取り上げていた。

 97年にはピンク・マルティーニの曲「サンパティック」が挙げられていた。えっ、あの米オレゴン州の?由紀さおりを世界的に有名にした?そう、あのグループだった。

 「サンパティック」はメンバーのチャイナ・フォーブスが「ブロークン」なフランス語で歌ったが、この年、大ヒットし、その後、シトロエン・ピカソのCM音楽としても使われたとある。youtubeで聞いてみて、これもすぐ納得がいった。「働きたくな〜い、食べたくな〜い…」という、いかにもフランス人が好みそうな楽しい歌だった。

シャンソンと詩人

シャンソンの歌詞に関心を持つようになって気付いたのだが、フランスの歌には詩人が多く登場することだ。

シャルル・トレネは「優しきフランス」や「ラ・メール」で有名。彼が作詞、作曲した「詩人の魂」はトレネのほかにグレコら多くの歌手が歌っている。この「詩人の魂」は詩人が死んだ後でも歌は街に流れている、というものだ。

「Quand il est mort le poéte」はジルベ-ル・ベコーがジャン・コクトーの死を悼んで歌ったといわれ、「詩人が死んだ時(Quand il est mort le poéte)、友達みんなが泣いた」で始まる。

ジャン・フェラの歌は特に詩的だ。例えば「C’est beau la vie」。出だしから「金色の髪に風、地平線に太陽、歌の文句、人生って何て素晴らしいんだ」といった言葉が並ぶ。また行の終わりは「ブロン」「ロリゾン」「シャンソン」「la vie」といった具合に、節ごとにそれぞれが韻を踏んでいる。タイトルに尊敬する詩人の名が登場する「アラゴンを歌う」は、アラゴンの詩に曲を付けたものである。

「プレヴェールに捧ぐ」はセルジュ・ゲンズブールの作詞、作曲。プレヴェールは「Les feuilles mortes(枯葉)」の詩人で、歌は彼へのオマージュだ。

ゲンズブールの「Je suis venu te dire que je m’en vais(手切れ)」。元妻のジェーン・バーキンも歌っているが、ベルレーヌの詩「Chanson d’automne」を使用。日本では上田敏の名訳として知られる、あの「秋の日のヴィオロンのためいきの…」という詩をベースにしている。ほかにゲンズブールには「ボードレール」という題の歌もある。

誰にも馴染みの、いわゆる歌謡曲であるシャンソンに、どうしてこんなに詩や詩人が登場するのか。詩の好きな歌手が多いからというなら、ほかの国の歌にももっと出てきていい。フランスには、聞く側も含め、みんなに詩や詩人を愛し、尊敬し、大事にする伝統があるからなのだろう。

Sは付くの、付かないの

英語全盛時代ではあるけれど、英語の約半分はフランス語に由来するといわれる。だから、フランス語の意味は文字面からある程度想像つくものの、発音、綴りはややこしい。

外国の医学書を扱っている出版社の友人から「あの人、フランス語を専攻したはずなのに、病院のこと、hôspitalって書くんですよ。どう思います」と言われたことがある。友人はこう説明した。

「フランス語で、病院はhospitalじゃなくhôpitalでしょ。頭の hとか、oの上のやつのことじゃなく、病院にsは付かないじゃないですか」
なるほど、フランス語の病院にsは付いてない。病院関連の仕事をしてるなら、知ってて当然かもしれないと思い、つい「そうだね」と答えてしまった。

が、後で考えたら、hospitalの語源とされるラテン語hospesにも、現代の病院のもとになったとみられる「hospice(施療院)」や「hospitalité(もてなし)」、さらに入院の「hospitalisation」にも「s」が付いている。むしろ、病院のhôpitalのほうこそ異例で、sがいつの間にか落ちてしまった、とみるほうがいいようだ。

フランス語より先に英語を勉強した者にとって、フランス語の発音、綴りは難しい。例えば青の意味のブルー、英語では「blue」だが、フランス語で男性形は「bleu」、女性形は「bleue」になる。フランス語の綴りは発音に忠実なのだ。「blue」なら「ブリュ」と読まなければいけないし、「ブルー」なら「bleu」と綴るしかない。

厄介と言えば、ダイヤモンドは英語で「diamond」。最後に付くのは「d」だが、フランス語は「diamont」と「t」で終わる。読みも英語は「ダイアモンド」とそのままだが、フランス語は「ディアモン」。平仮名や片仮名で書かれたらすぐには何のことか分からない。それに対し、劇場「Theatre」の場合、綴りは英、仏同じだが、フランス語だと言われればすぐに「テアトル」と読める。やっぱり、馴染んでいるかどうかの問題なのだろうか。

訳語に注意

7、8年前、台湾に行った際、街なかの修理工場が「汽車」という看板を掲げていた。まさか、こんな小さな所でと思ったら、ガイドさんが汽車というのは自動車のことで、自動車は「火車」と書くと説明してくれた。その際、中国語の「手紙」は日本語の「トイレットペーパー」だとも教えてくれた。

ここまで極端な違いはともかく、外国語翻訳ではこの種の間違いを犯しかねない。

アマチュアという言葉がある。もともとはラテン語のようだが、英語もフランス語も綴りは「amateur」だ。英々辞典に発音に近い「amature」という単語が載っていたが、教養のない人が使う文字だとか。それはさておき、広辞苑には「①愛好者、好事家②しろうと、職業でなしに携わる人」と載っており、英和辞書でも例えば「①しろうと、愛好家②下手な人」のような訳語が出てくる。原義は、それによって生計を立てていない「プロでない」人だ。

ロイター・ニュースによれば、シリア反体制派がソーシャルネットに載せている映像は、反体制の映像専門家が制作し、「amateur video」と言うのだという。これを日本語で素人映像と訳したら違和感は否めない。日本語の素人には下手くそ、のニュアンスがあるからだ。

日本語でも、アマチュア野球などという言葉は自然に使われている。翻訳なのでカタカナを避けたい気持ちもあるかもしれないが、アマチュア映像と訳すのがいいと思う。

「成功」という言葉は英語で「success」、フランス語は「succès」だ。「e」の上にアクソングラーヴが付いているのは、いかにもフランス語だが、フランス語ではヒットの意味で使われることが多い。例えば、「Ce film a eu un grand succès」を、白水社の辞書は「この映画は大ヒットした」と訳している。英語には別に「hit」(日本語もヒット)という言葉があるのだが、フランス語にないせいかもしれない。翻訳の際は前後関係、状況から言葉を選ぶしかない。似てるがゆえに、注意が肝心である。

英和辞書の選び方

 英和辞書を選ぶ場合について書いてみようと思う。
 幾つかの英単語を用意しておいて、辞書ごとに比べてみるのだ。その単語は抽象的な言葉のほうがいい。
 20数年前から「controversial」や「upset」を使っていた。
「controversial」は、今は「論議の的になる」や「問題の多い」と出てくるが、当時は「論争的な」という訳語しか載っていなかった。学校の試験ならともかく、仕事として翻訳するときはほとんど使えない。前後関係から、言葉をひねり出すしかなかったのだ。「upset」のほうはもっと大変だった。「さかさまの」とか「覆す」とかしか載っていなかった。「動転して」いる様子なのに、それらしい意味が出てくる英和辞典はなく、英々辞典などを使うしかなかった。
 最近の経験だが、ワイン好きにとって良し悪しで問題となるのは「consistency」と「vintage」だ、という英語の文に出遭った。「consistency」?この言葉は普通「一貫性」や「持続性」を指すはず。でも、ビンテージに並ぶのだから、味に関するものかも、そんなの辞書に載っているのかしら?と思いながら調べてみると、「濃度、粘り」とあるではないか。迷わず「こく」と訳すことにした。
 こくについては、「full body」という英単語もあり、日本語でも今は「フルボディー」という言葉が使われるくらいだ。そこで「body」について調べてみたら、これも、どの辞書にも意味の何番目かに「こく」が出ていた。
 辞書はかなり便利になった。必要な訳語はほとんど網羅されている。もう、選ぶ際、「controversial」や「upset」は役に立たないということだ。
 辞書は語数の多いほうがいいのか、例文の多いほうがいいのか。自分に合ったものにするしか方法はないのかもしれない。

ハナミズキの花

 この季節、ハナミズキが街路樹として庭木として目立っている。桜の葉っぱを大きくした緑の上を埋め尽くすかのように咲く、白と薄いピンクの花が印象的だ。

 そんな折、ロイターの映像ニュースで知ったのだが、クリントン米国務長官がハナミズキの苗木3000本を日本国民に贈る、と発表した。日本がワシントンに桜の木3000本を贈って100年になるのを記念してのことだという。

 えっ、花水木(ハナミズキ)?日本のどこでも見られるじゃない?市の木や区の木に指定しているところも全国にいっぱいあるのに?

 でも、実はこの木、北米が原産らしい。これは後で分かったこと。稲畑汀子編ホトトギス新歳時記には、「明治四十五年(1912)東京市長尾崎行雄が日本の桜を贈ったお返しとしてアメリカから贈られたもの」だと書いてあった。

 そうか、ハナミズキは米国から贈られた木だったのか。今回は2度目なのか。全部がそうか分からないが、今あるのはその子孫?こんなに増えた?今や日本では初夏の風景の一部になっており、一青窈の歌のタイトルにもなってるもんね。

  が、不思議なのは、いろいろ知りたくて本屋さんや図書館に走ったのだが、ほとんど収穫はなかった。図鑑や本でハナミズキは他の花や木に比べ、あまり大きく扱われていないのだ。そう言えば、米国からハナミズキが贈られるというニュースも、新聞やテレビでは地味な扱いだった。その辺の事情と関係あるのだろうか。

 ハナミズキは英語で「dogwood」という。犬の木?面白い由来がありそうなので、後で調べてみたい。ロイター電には「ワシントンでは毎年、この花を祝うイベントを開いている」ともあった。で、グーグルに「dogwood festival」と入れてみたら、全米各地でいろんな形で開かれていることが分かった。バーベキュー・パーティーもあるようだから、アルコールも入るのだろう。好きな花や木を愛で、祝うというのはいずこも同じなんですね。

小栗上野介と言えば

 小栗上野介と言えば、幕末に地元の赤城山中に隠し金を運んだ人と思っていた。周囲から聞いていたのか学校で教えられたのか、そう信じ込んでいた。それが間違いだと気付くのはずっと後になってからだ。

 小栗は1827年、神田駿河台の生まれ。先祖は徳川家康と同じ清和源氏系松平。34歳の時、遣米使節として渡米、帰国後は外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任し横須賀造船所の建設、洋式陸軍制度の導入、フランス語学校の設立、日本初の株式会社「兵庫商社」設立、初の本格的な洋風の築地ホテル建設などに尽力した。司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだのはこうした業績を指している。

 小栗はその後、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れて急きょ江戸に戻ってきた将軍慶喜に徹底抗戦を主張したことで職を解かれ、知行地の上州権田村へ移り住むことにする。が、薩長から狙われ、1968年春、新政府側によって斬殺、世間からも抹殺されてしまう。時に数え42歳だった。同じころ、薩長とうまくやり、英雄ともてはやされることになる勝海舟とは対照的である。当時のフランスと英国、米国などの動きも注目に値する。

 今でこそ、小栗については童門冬二著「小説小栗上野介」や佐藤雅美著「覚悟の人―小栗上野介忠順伝」などの本も出ている。TVもNHKだけでなく、つい最近ではBSのTBSが「THEナンバー2 〜歴史を動かした影の主役たち〜」を放送した。小栗の菩提寺の東善寺住職、村上泰賢は副題が「忘れられた悲劇の幕臣」という評伝で書いている。

 「少しずつですが、小栗上野介が認知されるようになったのは明治以来の教育が途絶えた第二次世界大戦の敗戦がきっかけでした。しかし…平成になった今でも…専門的に研究している大学の先生は存在しません」「戦前は反政府の逆賊、戦後は軍国主義者とみられてきたのです」

 もっともっと研究が進み、見直されていくのを期待したい

フランス革命とは何か

 フランス革命は、深刻な財政危機に直面したフランス王国が全国三部会を召集したところから始まる。聖職代表の第1身分、貴族代表の第2身分は自分たちの特権を守ることに汲々とし、進歩的貴族、聖職者を引きこんだ第3身分が憲法制定国民議会を結成する。

 この国民議会に国王政府が軍隊を差し向け、パリ民衆の怒りを買って1789年7月14日、バスティーユの要塞は陥落させられる。何故、パリだったのか。この後、ルイ16世の革命側との和解、王家のベルサイユからパリへの移動、教会財産の国有化、ジャコバン・クラブ発足…と続くのだが、佐藤賢一著「小説フランス革命」はいよいよ、国王一家のパリ脱出、ヴァレンヌ捕捉へと向かっていく。

「小説フランス革命」は文庫になったのを機に読み始めたが、既に7冊目が出た。

 大きな歴史の流れも様々な傑出した人物が社会の中でぶつかり、結びつき、引っ張りあい、作られる様子が伝わってくる。第6冊まで焦点が当てられていたのは革命初期の英雄ミラボーと、その死、それにロベスピエールだ。

 ミラボーは開明派貴族だが、第3身分の代表として議員に選ばれる。小説では放蕩な生活ぶりも描かれ、下品と言えば、そうなのだが、やはり貴族の貫録は残しているし、時代を見通す力は持っていたようだ。

 ロベスピエールは第1冊以来、田舎出身の若くてまじめな、童顔の優秀な弁護士として登場。当初はミラボーを師と仰ぐが、徐々に離れていく過程、その際の苦悩の様子が詳しく描かれてきた。恐怖政治の中心人物となっていくのは、これからだ。

 個人同士の絡み合い、思いはどこまで事実で、どこまで創作か分からない。が、フランス革命が現代の問題としても生々しく蘇ってくるのは確かだ。佐藤は今に伝わる肖像画を基に「フランス革命の肖像」も書いており、同時に読むことで迫真性は増してくる。

これぞシャンソン

 シャンソン愛好歴は長いのにジャン・フェラの歌を知ったのは恥ずかしながら、ごく最近だ。ジョエル・ダル編「Partager la chanson française」を通してだった。

 この本はフランスを代表する100曲の歌詞を載せているのだが、フェラの歌は、「Ne me quitte pas(行かないで)」のジャック・ブレルの6曲に次いで多く、5曲が紹介。シャルル・アズナブール、セルジュ・ゲンズブール、エディット・ピアフらの4曲よりも多い。

 まず「C'est beau la vie」。映画「しあわせの雨傘」でカトリーヌ・ドゥヌーブが歌っている、あの歌だ。ほかに「La montagne(ふるさとの山)」や「Nuit et brouillard(夜と霧)」なども載っている。

 ジャン・フェラは1930年12月26日生まれ。2010年3月13日、79歳で亡くなったが、その時のパリ発共同電によれば「パリ近郊のユダヤ人家庭に生まれ、父親をナチスの強制収容所で失う。50年代にパリの酒場などで歌い始め、64年の『ふるさとの山』などがヒット…少年時代にナチスから自分を救ってくれたフランス共産党のシンパとなり、60-70年代には政府を批判した政治的な歌も多い」という。

 そんなフェラが亡くなった時には、政治的に対極にあったと思われるサルコジ大統領さえ、フェラを追悼する声明を発表している。ラジオ・フランス・アンテルナショナルによると、大統領は彼の歌は「まぎれもなくフランスのシャンソン」と語った、という。

 例えば「ふるさとの山」は、みんな都会にあこがれ出て行ってしまうが、山がどんなに美しく、生活がどんなに素晴らしいかを歌っている。声はイブ・モンタンやゲンズブールにも似ているが、もっと野太いのに優しく、通る声と言ったらいいのだろうか。と、言い始めたところで気が付いた。ファンは多いのだし、歌はYouTubeなりで聞いてもらえば、すぐ分かる。野暮な解釈の押し売りはやめたほうがいいようだ。

 ただ、ひとり飲みながら、しみじみ聞くのに適した歌だとだけは言っておきたい。

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国定忠治とは

 高橋敏著「国定忠治」(岩波新書)を通勤の電車を利用し、読んでいる。2000年に第1刷が出ているのに今ごろ、読むのにはわけがある。国定忠治は幕末、赤城の山に籠った侠客だが、歌「赤城の子守唄」や浪曲「明月赤城山」を通してくらいしか知らないので、あるところを訪ねる前、もう少し詳しくなっておきたいからだ。

 昨年秋、群馬の温泉に向かう途中、空き時間を利用して、母の実家がある大間々町(現みどり市)で電車を降りた。小学校低学年のころまで、母に連れられ、町のメーンストリートで山車行列をよく見た。当時でさえ、古めかしいと思っていた街はほぼ記憶通りに存在していた。が、今は観光地になってもいるのだろう、地図を手にした女性グループ何組かとすれちがった。街並みも少し違っていた。

 確か、この辺に親類の営む薬局があったはず。立ち話中の男の人に聞いた。すると、「今はないけど、前はここにあった」と案内してくれただけでない。彼は地元で何代か続く床屋をやっており、「国定忠治も来ていた」と言うではないか。すごいと思ったものの、その時は時間がなかったので、ほとんど話はしてない。が、だだっ広い室内に黒い椅子が何台か置いてあり、床屋談義もできそうな場のある、いかにも雰囲気のある店だった。忠治本の存在はその直後に知り、注文して購入した。

 本の著者、高橋は他にも忠治ものや清水次郎長ものを出している本格的研究者だ。高橋によれば、「お上に徹底抗戦した」忠治は「お上との調和に努め、ハッピーエンドの生涯をまっとうした博徒、清水次郎長」と「対照的である」という。また、さまざまな資料を基にして「忠治捕縛は天保14年、老中水野忠邦からの命令による」、忠治の刑場送りは「警備するもの二百余人」などと書いている。

 忠治とは?時代は?お尋ね者でありながら、いかに勢力拡大を図ったのか?生活範囲は?など、もっと知った上であの床屋さんをもう一度訪ねてみようと考えている。

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