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2012年4月

小栗上野介と言えば

 小栗上野介と言えば、幕末に地元の赤城山中に隠し金を運んだ人と思っていた。周囲から聞いていたのか学校で教えられたのか、そう信じ込んでいた。それが間違いだと気付くのはずっと後になってからだ。

 小栗は1827年、神田駿河台の生まれ。先祖は徳川家康と同じ清和源氏系松平。34歳の時、遣米使節として渡米、帰国後は外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任し横須賀造船所の建設、洋式陸軍制度の導入、フランス語学校の設立、日本初の株式会社「兵庫商社」設立、初の本格的な洋風の築地ホテル建設などに尽力した。司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだのはこうした業績を指している。

 小栗はその後、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れて急きょ江戸に戻ってきた将軍慶喜に徹底抗戦を主張したことで職を解かれ、知行地の上州権田村へ移り住むことにする。が、薩長から狙われ、1968年春、新政府側によって斬殺、世間からも抹殺されてしまう。時に数え42歳だった。同じころ、薩長とうまくやり、英雄ともてはやされることになる勝海舟とは対照的である。当時のフランスと英国、米国などの動きも注目に値する。

 今でこそ、小栗については童門冬二著「小説小栗上野介」や佐藤雅美著「覚悟の人―小栗上野介忠順伝」などの本も出ている。TVもNHKだけでなく、つい最近ではBSのTBSが「THEナンバー2 〜歴史を動かした影の主役たち〜」を放送した。小栗の菩提寺の東善寺住職、村上泰賢は副題が「忘れられた悲劇の幕臣」という評伝で書いている。

 「少しずつですが、小栗上野介が認知されるようになったのは明治以来の教育が途絶えた第二次世界大戦の敗戦がきっかけでした。しかし…平成になった今でも…専門的に研究している大学の先生は存在しません」「戦前は反政府の逆賊、戦後は軍国主義者とみられてきたのです」

 もっともっと研究が進み、見直されていくのを期待したい

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